-
五島三子男「Grass wording Ⅳ-1」
¥55,000
作家名:五島三子男 作品名:Grass wording Ⅳ-1 サイズ:H480mm x W515mm (額縁外寸サイズ H495mm x W525mm) 技法:植物の版・オフセットインク・染料 制作年:2016 本品は、自然の為す技に委ねながら自然と共振し同調して、 自然を対象にした作品を造形するアーティスト【五島三子男】作、 植物の葉脈を版画にした実に美しい作品になります。 版画を主に制作しています。作品には、植物の葉や蔓を版としたものです 自然が持つ美しさや植物の成長の速さへの体験が、五島の制作の背骨を作ったとされています。 自然を対象に造形する現代作家の中でも、 五島三子男は異質である。 2012年頃から五島のコラグラフによる版画作品を見てきた。 五島の感性は、自然の為す技に委ねながら自然と共振し同調する。 そこにあるのは作家とともに過行く時間の流れ。 そして自然への畏怖である。 彼方からの声を静かに待ち、時の経過が作家に付与する形を優しく拾い上げる。 たとえば、五島が海潮に委ねる金属板の腐食がそうだ。 さて、2019年10月に、「ART SPACE SOW 草(川崎市鹿島田)」で開催した個展のことである。五島からの提案に、「いつまでも仕事場の片すみにいた作品群が今回の主役です」と添え書きしてあるのを、いぶかりながら「昔の作品なのかな」とふと思った。 それが違っていた。 新作(2019年)だけだった。 本稿は、冒頭に述べた個展案内添え書きの、「今回の主役」について更に敷衍する。 その意味では、作品評論の趣旨から些か逸れるかも知れないが、 五島の制作姿勢を知る上で貴重な機会になる筈だ。 作家は、2007年から、「植物の実像を掘り起こす仕事をしている。」と言い、 「失敗というものがないが、しっくり来ないものが沢山生まれる」ことで放置される作品が増えていくけれど、時の経過とともに「突然に一つの画面にまとまる」ことがあるという。 成程、それは丁度、長い時間をかけて彫られた仏像にようやく魂が入る日を迎えるにも似て、 プレス機にかける緊張と欣喜を伴う、その作品が完成したことを意味しようか。 或いはまた、禅語で言う「の機(啐啄同時)」といった方が、より真実ではないか。 これは、雛が卵から孵化する場合、雛が内側から殻をつついて出ようとする正にそのときに、母鳥が外から殻をつついて呼応し誕生を迎える、という意だ。作家がその絵筆を「どこで止めるか」とは異なる、熟成がある。 五島三子男の作品は、10年以上の時間をかけてようやく誕生したものがあるのだ。 放置されていても、作家の視線が「あそこに」「ここにも」と反復的にいつも向けられ、未完の作品は命を失わず、時間の流れの中に熟成の時を待っている。 誕生を待たれて、なんと幸せな作品たちであろうか。 それを目にする鑑賞者にも至福は共有されるものだが、五島自身が一番幸せなのかもしれない。 作品の成長に要する長い、アトリエの中でたゆたうような時間を共に過ごした作家であれば、作品への想い、慈しみに似た感情も特別なものではないかと考える。 しかし、完成とともに作品は過去のものとなる。 五島の魂は作品中に残っていても、既にそこには五島はいない。 新たな創造が始まるのである。 人は自然界の一部であることを忘れがちだ。 醸成の時間が不可欠なのは酒だけではない。混迷を深める不透明な現代である。 自然を畏怖し尊崇する五島が、その時を待つ「啐啄の機」に恵まれた作品が鑑賞者にもたらす至福の時間は、 貴重である。
-
五島三子男「Grass wording XⅡⅡ-5」
¥33,000
作家名:五島三子男 作品名:Grass wording XⅡⅡ-5 サイズ:H330mm x W280mm (額縁外寸サイズ H515mm x W460mm) 技法:植物の版・オフセットインク 制作年:2018 本品は、自然の為す技に委ねながら自然と共振し同調して、 自然を対象にした作品を造形するアーティスト【五島三子男】作、 植物の葉脈を版画にした実に美しい作品になります。 版画を主に制作しています。作品には、植物の葉や蔓を版としたものです 自然が持つ美しさや植物の成長の速さへの体験が、五島の制作の背骨を作ったとされています。 自然を対象に造形する現代作家の中でも、 五島三子男は異質である。 2012年頃から五島のコラグラフによる版画作品を見てきた。 五島の感性は、自然の為す技に委ねながら自然と共振し同調する。 そこにあるのは作家とともに過行く時間の流れ。 そして自然への畏怖である。 彼方からの声を静かに待ち、時の経過が作家に付与する形を優しく拾い上げる。 たとえば、五島が海潮に委ねる金属板の腐食がそうだ。 さて、2019年10月に、「ART SPACE SOW 草(川崎市鹿島田)」で開催した個展のことである。五島からの提案に、「いつまでも仕事場の片すみにいた作品群が今回の主役です」と添え書きしてあるのを、いぶかりながら「昔の作品なのかな」とふと思った。 それが違っていた。 新作(2019年)だけだった。 本稿は、冒頭に述べた個展案内添え書きの、「今回の主役」について更に敷衍する。 その意味では、作品評論の趣旨から些か逸れるかも知れないが、 五島の制作姿勢を知る上で貴重な機会になる筈だ。 作家は、2007年から、「植物の実像を掘り起こす仕事をしている。」と言い、 「失敗というものがないが、しっくり来ないものが沢山生まれる」ことで放置される作品が増えていくけれど、時の経過とともに「突然に一つの画面にまとまる」ことがあるという。 成程、それは丁度、長い時間をかけて彫られた仏像にようやく魂が入る日を迎えるにも似て、 プレス機にかける緊張と欣喜を伴う、その作品が完成したことを意味しようか。 或いはまた、禅語で言う「の機(啐啄同時)」といった方が、より真実ではないか。 これは、雛が卵から孵化する場合、雛が内側から殻をつついて出ようとする正にそのときに、母鳥が外から殻をつついて呼応し誕生を迎える、という意だ。作家がその絵筆を「どこで止めるか」とは異なる、熟成がある。 五島三子男の作品は、10年以上の時間をかけてようやく誕生したものがあるのだ。 放置されていても、作家の視線が「あそこに」「ここにも」と反復的にいつも向けられ、未完の作品は命を失わず、時間の流れの中に熟成の時を待っている。 誕生を待たれて、なんと幸せな作品たちであろうか。 それを目にする鑑賞者にも至福は共有されるものだが、五島自身が一番幸せなのかもしれない。 作品の成長に要する長い、アトリエの中でたゆたうような時間を共に過ごした作家であれば、作品への想い、慈しみに似た感情も特別なものではないかと考える。 しかし、完成とともに作品は過去のものとなる。 五島の魂は作品中に残っていても、既にそこには五島はいない。 新たな創造が始まるのである。 人は自然界の一部であることを忘れがちだ。 醸成の時間が不可欠なのは酒だけではない。混迷を深める不透明な現代である。 自然を畏怖し尊崇する五島が、その時を待つ「啐啄の機」に恵まれた作品が鑑賞者にもたらす至福の時間は、 貴重である。